東京の自宅にも房総の小屋にも現像した写真は一切飾っていない
房総フィールドにステイしている間、1日100枚くらい撮ることもあるのに、使うのはもっぱらこのBlogだけ
もちろんお蔵入りしている写真は膨大にある
合計6Tある外付けHDDはまもなくいっぱいになる
親父が亡くなった時、撮りためた写真を掘り返していたら、小屋の屋根を上げる際、親父に手伝ってもらった時の写真と、両親が房総に遊びに来た時、家族3人で撮った写真が出てきたので、現像して小屋の柱に貼ってみることにした
そしてもう一枚
実は、僕の親父が亡くなる前日、お隣さんの芝犬 コナツちゃんが亡くなったのである
親父が亡くなった記事をポストした翌日、お隣さんからお悔やみの言葉とともにコナツちゃんが亡くなったことを知らせるメールが届いた
ダブルショックである
コナツちゃんはお隣さんが東京に住んでいたときから一緒に暮らし始め、僕が小屋を建てるため整地をしている頃に房総にお引越しして来た
その時からのお付き合いである
広い敷地をぐるぐる走り回りとても気持ち良さそうだった
きっと東京の建物の合間を縫ってお散歩するのとは全く違う場所で、心身共に解放され1日1日を楽しんでいたのだと思う
週に1〜2日間 房総フィールドで過ごすときはだいたい見かけていたし、近くに来たときは撫で回して遊んでいた
コナツちゃんの脱走防止用に設けられた柵越しから
「コナっちゃーん」
と呼ぶと
「いまいくよー」
ってな感じでやってくる姿がとても可愛かった
吠えたり噛んだりすることもなくとても人懐こいやつだったけれど、どことなく達観した印象もあった
ここ1、2年くらいは白髪も増え、耳も遠くなったのか呼んでも我関せずといった感じだった
時折、遠くを見つめてじっと佇んでいる姿をみて
「きっと宇宙と交信してるね!」
とお隣さんと話していた
でも
お隣さんの旦那さんが
「コナツぅー!」
と呼ぶ声も聞こえなくなってしまった
昨日、亡くなった時のコナツちゃんの写真を見せてもらった
とてつもなく穏やかな表情をしていて、まるで寝ているかのようだった
僕の親父も息を引き取った瞬間に安堵の表情になった
生命体には自己再生機能が備わっているため、それが正常に機能し続けていれば、恐らくずっと生きることが出来るのであろう
しかし、歳とともに再生機能がエラーを起こし始める。それが大きな疾患に繋がったり、衰えることにより死を迎える
これが生命体の宿命である
もし仮に魂というものが存在しているとすれば、時に苦痛を伴う肉体を離れ、社会的制約からも解き放たれたとき、どのように感じるのであろう?
2人の安堵した表情はなにを意味するのであろう?
まだ肉体をもつ魂はなにを望んでいるのだろう?
柱に貼った3枚の写真を眺めながら、三途の河を犬かきして泳ぐコナツちゃんと、その後ろを追っている親父の姿を思い描き、魂のことをぼんやり考えていた
僕の魂はなにを求めてるんだろうね?
川で遊んでないで教えてくれよ、コナっちゃん、親父!