写真を撮っているときはファインダー越しに映るシーンに夢中になっていて、その瞬間、その場にはいない=リアルを体感していなかったりするものです
撮影を終えてデータをPCに転送し、さっきまで見ていた映像をディスプレイ越しに眺めていると「本当にこんなシーンの中にいたのか?」と思うような感覚に陥ることもあります
日常生活で私たちの意識が向かうところは、視覚、聴覚や肌感覚から得られる「外側の世界」か、記憶や想いといった「内側にある世界」
外部から得た情報をもとに、快・不快を感じ、感情が動き、意識は過去や未来へと行ったり来たりしています
元量子物理学者で作家のヴァジム・ゼランドの著作「TUFTI the Priestess」では、それらを「外部スクリーン」と「内部スクリーン」という言葉で表現しています
そして、そのどちらにいる自分も「眠っている状態」としています
TUFTIでは肩甲骨の間にある「三つ編み」と呼ばれるスポットを持ち上げ、その先端に「未来の状態」のイメージを放つと、それが現実化するとあります
その際、イメージした未来をどのように実現するか、その方法を考える必要はないとしています
いわゆる「宇宙におまかせ」的な感じですかね
では、現実とはどこにあるのでしょう?
僕の経験則や「TUFTI」で記されていることを合わせてみると、視覚や聴覚など五感で捉えている物理空間や、心の中で渦巻いている感情の中に現実は存在していないように感じています
いまこの瞬間、現実だと思っている世界は、過去からの連続が積み重なって創り出されている感覚がある一方、「こうありたいという未来」のイメージが近づいてきているような感覚もあります
もし、いま捉えている現実が「自分が心から望む状態」でなかったとしたら、それは過去の連続の中に留まっていることが理由なのかもしれません
心の中で渦巻く感情とは ”異なる領域” にある「こうありたいという未来」に意識を向け、それをより詳細にイメージする
そしてそのイメージが、この物理空間に現象化することを体感すると、この現実とは、現象化される前に「そのヴィジョンを思い描いたいまこの瞬間」なのかもしれない、と思えてきたりもします
とはいえ、この三次元空間においては、ヴィジョンが現象化するまでには多少時間がかかるもの
その過程で右往左往することもあるでしょう
でもそれは「こうありたい」と意図したものと「イメージ」の間にズレがあり、それをアジャストしているだけなのかもしれません
どんなに小さなことであったとしても、イメージしたものがこの世に現れてくる感覚を捉えられるようになると、このロジックは間違っていないと思えるようになってきます
ポイントは、やっぱり、「意図」して「宇宙におまかせ」することなんでしょうね!
と最近になってやっと思えるようになってきました!
節分を過ぎると陽もだいぶ伸びてきて、サンセットタイムに遊ぶ余裕も出てきます
この時間帯の海の色、白波がピンク色に染まるシーンは、AIが作ったものか?!と思ってしまうほど非現実的な光景です
こんな幻想的なシーンを見ていると、夢と現の間を漂っている感覚になってきます
こういった写真が撮れたのも、僕がこういったシーンを見たいと意図したから現象化しているのかもしれないですね!
う〜ん、この世はほんと摩訶不思議!