子供の頃、夏休みに入ると祖父母が暮らしていた小樽で過ごすのが毎年のルーティーンでした
僕にとっての小樽は祖父母、叔父叔母、従兄弟たちとわいわい過ごした場所であると同時に、古い建物が残る街並みを散策するのが楽しみのひとつでもありました
当時はまだ観光地化されていなかった寂れた運河や石造りの倉庫群、手宮の鉄道博物館に置いてあった蒸気機関車、ランプやグラスなどの手作りガラス工芸など「ノスタルジックなものに溢れたカッコいい街」というのが子供の頃の小樽のイメージ
小樽の歴史は、江戸時代後半からニシン漁で栄え、明治期には石炭の積出港として発展。昭和初期は満州へ物資を輸送する拠点となったことから鉄道や倉庫などの整備が進んでいきます
商いが活況を呈すようになると日銀をはじめとした多くの金融機関が集まり「北のウォール街」と呼ばれるようにまでなります
しかし、乱獲によりニシンがいなくなり、終戦をむかえ物流が減少。石炭から石油へのエネルギー転換が起こったりと時代の変化とともに衰退し、1970年代に入ると「斜陽の街」とまで言われるようになりました
その頃から観光地として再建を目指す動きが出てきます。一時は埋め立てられる予定だった運河も観光資源として活用することとなり現在の姿へと変貌していきます
とはいえ、当時の街並みがそのまま保全された状態での開発ではなかったので景観に統一性はあまり感じられず、古くからある地元の店舗と小樽っぽいものをイメージした土産店や飲食が混在しはじめ、1980年代後半にはいかにも観光地といった雰囲気が漂い始めました
半日もあれば回れてしまう街の大きさに加えて、札幌から日帰りできる距離ということもあり、映えスポットを見て、寿司を食らってさっと帰ってしまう旅行者が大半なのではないでしょうか
中心部のアーケード街も8時ともなればご覧の有り様
数日泊まりたくなるようなローカルなコンテンツを提供できるかがこれから観光地として生き残れるかの勝負になるんでしょうね
小樽にはまだそのポテンシャルが残っていると思うんだけどな
子供の頃にばあちゃんの買い物について行ったり、じいちゃんに連れられてパチンコしに行った時の活気はだいぶ薄れてしまいましたが、この街に染み込んだ記憶と想いは深く、たとえどんなに寂れてもそれは変わらないのでしょう
この時期、小樽にやってきたのは夏休みの度にいろんなところに連れて行ってくれた叔父を見送るため
そういえば初めてのスキーに連れて行ってくれたのも叔父でした
ほんと「ありがとう」しか言葉が出てこなかった
最後に話したのは自家製お米を送ったときに電話をかけてきてくれたときだったな
「僕にとっての小樽」には欠かせない人がまた一人去ってしまったけれど、ここにくれば気配を感じることができるんだよね
久しぶりに叔父叔母、従兄弟+子供たち全員が集合して、まるで子供の頃のここで過ごした夏休みのような気分だった
それにしても、いつの間にかずいぶん大きくなったな、僕(笑)
おまけの小樽
僕が小樽にくる前の週、大雪が降ったようで除雪された雪の山が道路の隅々に積み上げられていました
雪のないところからやってくると、(失礼ながら)よくこんなところで生活できるものだ、たくましい!と思ってしまいます
その昔、ばあちゃんが「沖縄の人と北海道の人で年金額が同じだなんておかしい」と文句を言ってましたが、服にしたって光熱費にしたって北国の方がかかりますからね。正論です
雪道に慣れていない僕は1スッテンしましたが、地元民はスタタタと走り抜けておりました!流石です!
夜、小樽の街を小一時間ほど歩いてみましたが、夜の運河はこんな感じなんですね
この手のイルミネーション、そろそろやめません?!求めているものはもっとナチュラルなものですよ
大通りから一本外れたところの方がよっぽどいい雰囲気です!
ウェス・アンダーソン的シンメトリー感もするし、街灯のデザインがオシャレで旧共産国の街角にきたような雰囲気がしませんか?!
小樽といえばやっぱり海鮮ですね。東京に戻る朝イチに海鮮丼食べようと思ったけど寝坊した...
次回来たときはがっつりいただこっと!
八角の目が怖い...
今回の千歳までの移動は久しぶりのPeach。沖縄以来ですね
いつの間にかアプリでチェックインできるようになっていた!