クルマという乗り物の捉え方は様々あります
ときに単なる移動手段であり、ときに人と過ごす空間であり、ときに自分の存在を表すものであったりもします
それらに加え、いつでも行きたいところに行けるという移動の自由や所有する嬉しさや運転する楽しさを与えてくれるものでもあります
しかし、シェアリングエコノミーが定着し、近い将来現実となるであろう自動運転や、新たなモビリティデバイスの登場により、こういった価値観、特に「所有する嬉しさ」や「運転する楽しさ」といったものは変化していくでしょう
僕は、週に1〜2回ほど東京と房総を行き来する生活をしているので片道2時間近くをクルマの運転に費やしています
週に2回往復すると8時間近く運転していることになります
いつもは音楽やFMを聴いたりしながら運転を楽しんでいますが、8時間と言えば会社員の1日分の労働時間であり、1日分の(十分な)睡眠時間であったりします
今年に入り、この時間になにかできないか?と思い、今まで運転中に聴いていた音楽やFMを減らし、Amazonのオーディオブック Audibleで本を読む(聴く)ようになりました
Audibleのラインナップがまだ充実していないので必ずしも読みたい本があるわけではないですが、以前から読もうと思っていたけれど時間が取れずスルーしていた過去の名作やマーケティング、ライフスタイル関連の書籍を読む(聴く)ことが出来るようになったので、移動時間を「インプットする時間」に充てられるようになったのです
今後、テクノロジーが進化し自動運転のタクシーや、いつでも利用可能なシェアリングビークルが安価に利用できるようになれば、移動のスタイルは大きく変化していくでしょう
今まで通り音楽を聴きながら流れる車窓を楽しむこともできるし、本を読んだり、何かをアウトプットしたり、睡眠に充てたりすることも可能になります
いまちょうど電車の中でこれを書いていますがそんな感じですね
一方で、クルマを所有する喜びや、運転している時に感じる爽快感、意図した通りにコントロールできた時の楽しさなど、いわゆるドライビングプレジャーというものは無くなっていくのかもしれません
しかし、僕はこの2つの感覚が大好物(笑)
僕が13年間 乗っていたMazda Roadster(NC)はドライビングプレジャーを存分に味わえるクルマでした
ガチガチのスポーツカーでもなく、乗用車的なしなやかさもありながら、FR独特の加速感やイメージした通りにコーナーを抜けていくスポーティさもあるクルマ
大袈裟かもしれませんが、ちょっと買い物に行くだけでも「運転する楽しさ」を感じることが出来ます
昨日、諸事情あって、このロードスターを断腸の想いで手放しました(涙;)
最後にロードスターと房総半島をドライブしながら思っていたのは、
これからは、機械もライフスタイルも効率化が進でいくと、機械と無言の対話をしながらコントロールしたり、愛着を感じたりすることは減っていくんだろうなぁ
ということ
くしくも先日Audibleで読んだ(聴いた)落合陽一氏の「日本再興戦略」の第3章 テクノロジーは世界をどう変えるか?の中でも
運転の本来の目的は目的地と目的地の間のトランスポーテーションであり、運転を能動的行為ではなく運転させられている受動的なものとしています。そして移動時間の使い方は変化していき、クルマは道具としてのクルマではなく生活様式、ライフスタイルを定義するようなものになっていくとしています
6速マニュアルミッション、油圧式のパワーステアリング、アナログメーター、手動で開閉する幌などコンピューターや電気的に稼働するものは最小限に抑えられ、ドライビングプレジャーを感じることを最優先に設計されたクルマなんてものは前近代的なものになってしまうのかもしれません
近い将来、道具はライフスタイルのベースとなるサービスとして生活に組み込まれていくのでしょう
しかし、僕は、今の社会の脆弱性は、生活のベースがサービス化されたことにあると思っています
スイッチをONにすれば電気が付き、蛇口をひねれば水が出て、ボタンを押せばお湯が沸く、スーパーに行けば食材が手に入るし、コンビニは24時間やっている(いまのところ)
便利にはなったけれど、それが当たり前になったことで生まれた不安定さもある
効率性を高めることには大いに賛成だけど、その中で失われてしまう感覚の中に、人にとって大切なものがあるように感じるのです
だから僕はロードスターと過ごした日々の中で感じ続けてきた「道具としてのクルマ」以上の感覚も大事にしていきたいとも思うのです
13年間大きな故障もなく、187,000km、46都道府県を共に走破した相棒とのお別れは寂しいけれど、ひとまず感謝して手放します
本当に、本当に、ありがとう、ロードスター
君は最高のグランドツアラーだよ!
やっぱり買い戻そうかなぁ(笑)