この本が房総オルタナティブライフのルーツです。
1983年に出版されたこの本には、土地の切り開き方から野菜づくり、家畜の飼い方、食品の加工方法、煉瓦の作り方、エネルギーの生み出し方などがイラスト付きで解説されており、タイトル通り自給自足する術が網羅されています。
子供の頃、なぜかわかりませんが、飽くことなくこの本を読み耽っておりまた。
なぜ自給自足に惹かれるのか?
人類の進化をひとつの側面から捉えると「効率化」であることは間違いないでしょう。
初期は道具を使って狩や農耕を効率化し、その後、産業革命以降は大量生産したモノを流通させる社会システムを生み出しさらなる効率化を実現させました。
自分の身の回りを見渡してみても多くのものごとがサービス化されたプラットフォーム上で動いています。インターネットの普及に伴い効率化はさらに加速しました。
たまに日本が産業革命する以前の江戸時代に行ってみたいという話を耳にしますが、それはある種のノスタルジーでしかなく、いまの社会システムに慣れきった私たちが「いま以前」の時代で暮らすことは相当なストレスになると思います。基本的に移動は徒歩、冷蔵庫もなく、夏は暑く、冬は寒いのです。きっと。
高速で地球を移動でき、いつでも食べたいものが手に入り、エアーコンディショニングされた世の中は快適この上ないのです。
世の中の大半の人はこのシステムに違和感も感じずに生活しています。しかし、僕を含めた一定数、この本のような自給自足的ライフスタイルに憧れる人たちがいます。
モノやサービスが溢れているこんな便利な世の中なのに、なんでなのにわざわざDIYしたり土と格闘しようとするのか?
行き過ぎた資本主義社会へのアンチテーゼということがよく言われますが、これはどうも後付け的な感じがしています。
より豊かなものへの憧れ
著者のジョン・シーモア氏はこの本の中で自給自足の生活を以下のように記しています。
私の考えでは、自給自足の生活とは、食物を得るために1日の大半を費やしていたような、原子の生活に戻ることでは決してない。それどころか、今よりももっと豊かな生活へ向かって前進することを目指している。
~中略~
自給自足の生活では、都会とは逆に、生活に必要なものは全て自分で作り出し、そして、その日々の労働の中に喜びを見出すことを理想としている。ただ、これには正解がないので、すべてを自分の肉体と知恵に頼るしかない。だから、予想外に成功することもあれば、逆に大失敗に終わることもある。でも、自分で栽培した麦が豊かに実り、それを粉にひいいて焼いたパンがとてもおいしかったときなど、たとえようもないくらい大きな喜びと満足感を得ることができる。
自給自足の生活は、具体的に言えば、私たちの肉体も精神もともに健康であり、周りには気の合う友人たちやかわいい動物たちと、新鮮でおいしい食物があり、何より自然の中で自然と直接向かい合うことによって、その過酷さも優しさも丸ごと抱え込むような生活である。
確かに、現代社会へのアンチテーゼも含まれますが、むしろその先の新しい価値のひとつとして自給自足を位置づけ、実践されているのだと思います。
そしておそらく、頭でMECE的な思考の中から「自給自足」というスタイルを選んだのではなく、インスピレーションに従い「自給自足」に行き着いたのだと思います。
自分の肉体を使い、自然のリズムに波長を合わせていくことが、次の時代の「豊かさ」や「幸せ」の基準なのかも知れません。
そして、この本の冒頭には
自給自足の生活を目ざす人は、作物を育ててくれる大地に対して、いつも感謝の気持ちを忘れないようにしたい。
自然をよく観察すれば、人間も、動物も、植物も、単独では生きられないことがわかるだろう。これらの間に成り立っている相関関係を正しく理解して、その関係がうまくいくように手を貸すのが、私たちの仕事である。特に、土の中に住んでいる微生物や小動物の間にある微妙なバランスを崩さないように心がける必要がある。
人間も自然の一部だから、自然界のバランスを崩せば、その報いは必ず人間に返ってくるに違いない。
特に誰かに言われたとかではなく、いつの間にか自分の中にできていた基準がここに記されていました。というか、この本を見すぎて潜在意識に刷り込まれていたのかもしれませんね(笑)
房総オルタナティブライフの完全自給自足化はまだまだですが、この本を読み耽っていた子供の頃の夢の一部が現実のものとなっていました。いつの間にかね。