日本の神話では高天原に住んでいた天津神が、国津神が造った葦原中国(あしはらのなかつくに)を武力と交渉で半ば強制的に乗っ取たという「国譲り」のお話が出てきます
天津神の主宰神 天照大御神が葦原中国を平定する際に遣わした建御雷神(タケミカヅチ)が出雲の地で国津神の主宰神 大国主から国譲りを受けた後、最後まで国譲りに抵抗していた星の神 天津甕星(アマツミカボシ)が根拠地にしていた日立市 大甕(おおみか)の南方70kmのところにある鹿島に降り立ったことから鹿島神宮の主神となりました
葦原中国平定でタケミカヅチとともに降臨した経津主神(フツヌシ)は千葉県の香取神宮の主神となります
鹿島神宮と香取神宮はともに初代神武天皇の時代に建立されたといわれており、927年の延喜式によると当時「神宮」の称号を得ていたのは伊勢神宮とこの2社のみとあるそうです
この点からも天津神にとって鹿島・香取周辺は重要な場所であったのでしょう
この鹿島神宮と香取神宮に加え、茨城県 神栖にある息栖神社の三社が東国三社といわれています
夏休み最後はこの三社を巡ってみることにしました
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鹿島神宮 東の一之鳥居
最初に訪れたのは鹿島神宮 東の一之鳥居
タケミカヅチが出雲で国譲りを受けたあと東国に向かい、降り立ったところが茨城県 鹿島の明石浜
その地に木製の鳥居が建てられていますが、いまは防潮堤が築かれており神話の世界を感じ取ることは出来ません
上から見てみると少しイメージが湧きますね
鹿島神宮 御手洗池・奥宮・要石・西の一之鳥居
続いてタケミカヅチが祀られる鹿島神宮へ
神道では神の荒ぶる魂を荒魂(あらみたま)、平和的な魂を和魂(にきたま)に分けて捉えています
今回は荒魂が祀られる奥宮に近い奥参道から入ることにします
奥参道の入り口には御手洗池(みたらしいけ)があり、昔はここで身体を清めてから参拝していたそうです
御手洗池の脇にひっそりと建っているのが末社 大国社
御神祭は大国主
明治以降に祀られたそうですが、国譲りの相手方が祀られているというのも面白いところです
続いて奥宮へ
威厳ある古風な作りの社殿は慶長10年 1605年に徳川家康公が本宮社殿として奉納されたもので、元和元年 1619年に二代将軍秀忠によって現在の本宮が奉建されるまでこの社殿が本宮だったようです
この本宮の奥にあるのが要石
地震を起こす巨大ナマズの頭をこの石で押さえつけているそうです
ちなみにナマズの尾っぽは、香取神宮にある要石が押さえつけているとされています
こんな感じですね
鹿島神宮の参道は木々に覆われとても清らかな空気が漂っています
本宮に向かって参道を歩いていくと右手に鹿園が見えてきました
天照大御神の国譲りの命をタケミカヅチにを伝えたのが鹿の神 天迦久神(アメノカクノカミ)とされていることが由来のようです
日本書紀や大宝律令を編纂した藤原不比等が平城京遷都の際に、春日大社を創建しますが、その御霊は鹿島神宮のタケミカヅチであり、御分霊を鹿に乗せて春日大社に遷したとされています
ちなみに藤原氏はタケミカヅチ、フツヌシを守護神、氏神としています
続いて本殿をお参り。ただいま令和の大改修中で社殿は隠されております
二之鳥居をくぐり抜け
その先、クルマで10分ほどのところ、北浦のほとり大船津に建っているのが西の一之鳥居
この鳥居は平成25年6月に竣工したもので、厳島神社の鳥居を抑えて日本最大の水中鳥居になったそうです
厳島神社は平家の氏神。平家打倒の想いがまだ残っているんですかね?!
鹿島神宮は、最初に訪れた東の一之鳥居からこの西の一之鳥居、そして神宮内の参道が太陽の通り道となっており、本殿が北を向いている(南を向いて拝む)ことから太陽信仰の要素もあるようです
息栖神社 鹿島神宮の南の鳥居でもある一之鳥居・日本三霊泉 忍潮井(おしおい)
続いてクルマで20分ほど南に降ったところにある息栖神社へ
主祭神は久那戸神 (クナドノカミ)で、タケミカヅチとフツヌシを東国に先導した神
15代応神天皇の代に創建され、807年藤原内麻呂によってこの地に移転されたそうです
ここでも藤原氏が出てきますね
ちなみにクナドノカミは国津神の猿田彦と同一とされていますが、息栖神社の一之鳥居の横でシジミを販売しているのが猿田水産
これも古くからの繋がりがあるのでしょうか?!
境内を出てまっすぐいくと霞ヶ浦と太平洋を繋ぐ常陸利根川にでます
その船溜りに建っているのが息栖神社の一之鳥居であり、鹿島神宮の南の鳥居でもあります
その両端に日本三霊泉のひとつ忍潮井(おしおい)という井戸があります
それぞれ男瓶、女瓶という土器から水が湧き出しているとのこと
香取神宮 要石・奥宮とお団子
最後は千葉県に戻りフツヌシを祀る香取神宮へ
一般的にはメインの参道から緩やかな坂を登って本殿に向かいますが、今回は鹿島神宮と対をなす要石から見に行きます
続いてフツヌシの荒魂をまつる奥宮
この社殿は昭和48年(1973年)の伊勢神宮 第60回目式年遷宮の古材で建てられたものだそうです
最後に本殿をお参りし
大好物お団子食べて東国三社巡りは終了!
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古代の日本というと西日本中心のイメージがありますが、この地の歴史を神代の時代まで遡るとなにか別の勢力があったのでは?と思えてきます
なぜタケミカヅチとフツヌシは鹿島周辺 常陸国に向かいその地を抑える必要があったのか?
国譲りに抵抗した星の神 アマツミカボシを信仰する人々とはどのような人たちだったのか?
なぜここに要石があるのか?
どうして藤原氏は武神タケミカヅチ、フツヌシを氏神と崇めるのか?
藤原不比等は神代の時代をどのような意図をもって編集し日本書紀をまとめたのか?
鎌足・不比等から続く藤原の血筋が今の社会システムにどう組み込まれているのか?
などなど、まだまだ整理できていないことだらけですが、いま私たちが生きているこの時代にも、この頃に仕込まれた物語(ナラティブ)が脈々と受け継がれているような気がしてなりません
面白いことに鹿島神宮のすぐ横に高天原という地名が残っているんですよね
タケミカヅチはこの丘から降りてきただけだったりして!